第三章 遠き日のパリ


 初めて陽がその音を聴いたのは、九歳の夏、父と母と手を繋ぎ歩いていたパリの地下鉄の駅だった。
 父がかけるレコードの中の一曲。よく知っている曲だった。カフェでも同じ曲を何度か聴いた。ジプシー・スウィングの中で最も有名なその曲に三人揃って思わず足を止め、そして聴き入った。
 地下鉄でその曲を弾いていたのは、親子のようだった。母親は帽子を目深にかぶり、同じように帽子にすっぽりと顔を隠す息子はまだ少し年うえくらいである。ちいさな身体では到底扱いきれないようなおおきなギターを抱え、少年は一心不乱に弦を弾いていた。目にも留まらぬ速弾き、マカフェリ・ギターの特色である硬く尖った音は、壁にぶつかりより鋭く耳に突き刺さる。

 天才はいる────。

 幼き日の陽は、コンクリートに囲まれたステージで紳士物のハットに紙幣の山を築くその少年を見て、確かにそう感じた。

 陽はフランスで産まれ、フランスで育った。父がフランス人で、三年前に病で死んだ母は日本人だった。十五の時に父と母が離婚し、母に連れられ日本に来るまではパリで暮らしていた。
 両親ともに音楽家であったから自ずと楽器に触れる機会も多く、その中で幼い心を惹いたものがバイオリンだった。軽やかな音色、滑らかで美しいフォルム、全てが陽の胸をときめかせたのだ。
 三才でバイオリンを買ってもらい、飽きもせず毎日毎日弾き続けた。両親が止めなければ寝る事も忘れる程。その甲斐あってか、才能の開花ははやく、六歳で既に近所では有名な天才で、九歳でパリ中に神童と呼ばれるまでになっており、容姿端麗で才能豊かであった陽を、母は私の王子様などと言って甘やかしたものだった。
 クラシックに進まなかった理由は、両親がクラシック奏者でなかった事も大きい。ジプシー・スウィング出身で今やジャンルにとらわれず活躍するギタリストである父は常に家でその手の音楽をかけ、親子三人にリズムギターを加えちいさなカフェで弾く事もあった。父の教育もとにかく音楽を楽しませる事だった為に所謂音楽教室には通わずのびのびとその才能を伸ばし、そして陽自身、音楽をもっと自発的に、もっと自由に楽しみたいタイプであったから、ジプシー・スウィングのスタイルは最も身に馴染んだ。
 当時の陽は随分と自惚れていた。世界でいちばんのバイオリニストは自分だと思っていたし、何ならバイオリンに限らず、音楽の神に愛され選ばれた人間なのだと真剣に思っていた。
 だからこそ、地下鉄での少年との出逢いは衝撃的なものだった。
 神はふたり同時に愛し、どちらかを選べなかったのだと感じる程に圧倒され、後にも先にも初めて羨望を覚えた相手であった。それが誰でもない、聖月だったのだ。

 演奏が終わっても呆然とする陽の隣で拍手をしていた母が、ふと何かに気付いたように身を屈め、投げ入れられた硬貨を集める母親の顔を覗き込んだ。
「貴女、眞鍋……柚月さんじゃない?」
「そうですが……」
 母親は驚いたように顔を上げ、陽の母を伺うように見上げている。その猫のような瞳が、とても息子によく似ていた。
「やっぱり、そうじゃないかと思っていたの」
 陽の母はそう言うと、日本にいた頃よく演奏を聴きに行っていた事を熱く語り出した。最初は驚いていた母親も、次第に陽の母がそれなりに名を馳せたウッドベース奏者だと気付き、いつのまにか意気投合。それから陽の家族と聖月親子の親交が始まった。
 親子はパリ郊外に安いアパートを借りていたが、陽の家とはそれ程離れてはおらず、親子は頻繁に陽の家を訪れたし、陽の両親はそれをとても喜んだ。
 だが聖月はとても人見知りなようで、しばらくはずっと柚月の側を離れず、けれど親達はそう言うものだとそれ程気にしてはいなかった。だが陽はそれでは満足出来なかった。親の会話は何の面白みもなく退屈だし、やはり初めて耳にしてからずっとその心には聖月のギターの音だけがこだまするように響いていたからだ。
 だがお菓子をあげてもお気に入りのゲームを見せても、聖月はやはり興味を示さなかった。残る手段はと言えば、自ずと答えが導き出されるようなもの。
 その日も柚月の隣でじっと机の木目を眺める聖月を尻目に、親は楽しげに会話をしている。陽は隣の部屋で、愛用のバイオリンを手に深く息を吐いた。
 これまで学校でのせられて演奏する時も、客前で演奏する時も、緊張などした事はなかった。音楽が楽しい。それ以外に陽は何も持っていなかったからである。けれど初めて、朝食が逆流して来そうな程の張り詰めた何かを感じていた。この日の為に弦も張り替えた程自分でも気付かぬくらいに入れ込んでいた。
 だが確信はあった。確かに聖月は天才だ。だが、自分もまた神に愛された存在なのだ。陽が心を奪われたように、聖月もまた、バイオリンの音色に心を奪われる筈。
 念入りなチューニングを終え、再び息を吐く。
 初めて、誰かの為にバイオリンを弾く。硬く閉ざされた心の扉を優しく叩くように、陽は弓を滑らせる。聖月を想い心に生まれた旋律を紡ぎながら、不安と期待が交互にちいさな胸を満たしてゆく。
 陽の過剰な自意識は、けれど見当違いではなかった。開け放たれた扉の隙間から、猫のようなおおきな瞳がじっと陽を見詰め、そして強張っていた幼い顔は、くしゃりと破顔した。まるで、全てを開け放ったような笑みだった。
 言葉など一つもない。けれどその瞬間、二人は探し求めていたものを見付けた心地がした。

 聖月と陽が打ち解けてから、両家の関係は更に深いものとなった。家では陽の両親と聖月親子で演奏する事もあり、二人の小さなソリストの才能に親たちは色めき立ち、二人もまた互いの産み出す音に激しい羨望を覚え、競い合うように成長していった。
 父親の姿は一切と言っていい程見なかったが、柚月は聖月の父親はロマであり、聖月を身ごもり未婚の母となった事を暫くしてから明かした。とは言え関係は良好で、聖月は毎日父親の住むキャンピングカーに遊びに行っては父や一族と共にギターを弾いていたし、両親はとても愛し合っていた。結婚しなかった理由も、聖月の父親が市民権を得て定住する事を拒み、柚月は聖月の為にと定住に拘ったからで、当時大喧嘩をしてタイミングを逃したからに過ぎず、聖月が産まれた今は元の通り、とても仲睦まじい夫婦だと言う。
 ロマ、またはジプシーと言うと、流浪の民と言うイメージが強いだろう。だが現代フランスのみならずそれも少しづつ変わっていて、定住する者も多い。だが未だ定住せず違法キャンプにとめたキャンピングカーで一族共に暮らす者も多く、聖月の父もまたそのうちの一人であった。
 陽はその話しを聖月からよく聞いていて、聖月の父にとても会いたかったし、ロマの産んだ音楽をロマと共に演奏してみたいと心から望んでいた。
 陽の母は陽がそこへ行く事を良しとはしなかったが、その強い憧れから陽は聖月に連れられ隠れて何度か聖月の父に会いに行っていた。聖月の父は寡黙だが気の優しい男で、陽の事もとても可愛がってくれたし、聖月を宝物のように溺愛していた。そんな父は聖月にとって何よりの自慢で、そして最も尊敬する人物である事は言葉にしなくとも伝わる程であった。
 二人は性格も真逆、好きな食べ物も好きなものもまるで違い、音楽以外には何の共通点もない。けれど出逢ってから殆ど毎日のように会い、毎日のように音楽を奏でた。それこそ色々なジャンル、色々な曲を。それでもやはり、二人にとってジプシー・スウィングは最もしっくりとくるものだった。
 自由なのだ。始まりと終わりのテーマ以外に決まりはない。ソロの長さも、メロディも、全て即興。弾き手によって全てが決まる。音楽を心の底から楽しみ愛していた二人にとって、それはとても刺激的な音楽だった。
 同じ時、同じ国の同じ街に、音楽の神に愛された二人が出逢った。それには誰しもが運命を感じた筈だ。引っ込み思案の小さなギタリストと、自信家の小さなバイオリニストが共に歩む事を疑う者はいない。それ程に二人の音楽は共鳴し、融和し、底のない奇跡的な快感を生む。そしてそれは聴衆よりも、二人が強く感じていた。
「僕の相棒は、陽しかいない」
 聖月が頬を染め、照れ臭そうに横顔でそう呟くたびに、陽の胸は高鳴った。心は同じだった。どれ程のプロとステージを共にしたとしても、世界で認められる素晴らしい奏者の演奏を聴いても、聖月程陽の血を滾らせる者はいない。
 二人は共に永遠を信じていた。神が引き合わせたこの運命を信じていた。何があっても、どれ程強い力が二人を引き離したとしても、必ず魂は互いに呼び合い、共に歩む事を命じるのだ、と。

 けれどある日、事件は起きた────。

 二人が出逢い四年後のこと。日曜日だった。
「母さん、聖月は?」
「どうしたのかしらね、もうとっくに終わっている筈なのだけど」
 聖月の母は熱心なカトリック教徒で、その影響で聖月も母に連れられよく教会に通っていた。今日も日曜礼拝に行った帰りに陽の家に寄ると言っていたし、この四年間毎日曜日はそうだった。
「俺、探してくる」
 もう遅いから教会だけよ、と言う声を背中に、陽は駆け出していた。
 落ち始めた秋の陽射しはまだするどく、しろい肌を刺す。乾いた向かい風は、まるでこの先を見る事を拒むように陽を押し戻す。けれど陽は夢中で風を掻き分けた。その冷たさに背筋が震え、血が失せるように固くなってゆく。何か、嫌な予感がするのだ。
 親子が通う教会に辿り着くも、当然中は既に一般開放されており、いるのは観光客ばかり。神に携帯を向け、聖堂に耳障りな大声を響かせて笑っている。それがまるで悪魔のささやきのように聞こえ、陽はすぐさま教会を飛び出した。
 立ち止まる事なく走り続け、辿り着いたアパートの階段を駆け上がり、二階にある部屋の扉を乱暴に叩く。直ぐに驚いた顔で扉を開いた柚月の姿に安堵したもののそれも一瞬だった。
「あら、聖月と入れ違いね。陽と遊ぶ前にパパのところへ行くと言っていたから、お家で待ってらっしゃい」
 返事をしたかしていないか、それすら覚えていない程反射的に陽は再び走り出した。
 どうか、この胸のざわめきを鎮めてくれ。いつものようにあの仔猫のような愛くるしい顔で微笑んでくれ。
 そう願うたび、不安ばかりが肥え太っていった。

 地下鉄に乗り、駅から随分と走り漸く聖月の父が住むキャンピングカーの群れに着く頃には、陽は沈みきっていた。それなのに、まるで夕陽が地に堕ちたかのように、紅が目の前に拡がっていた。一体何が起きたのか理解出来ず、疎らに見受けられる人々に紛れ、陽は呆然と立ち尽くす。
 燃えている────彼等の魂が宿る、白い家々が。
「聖月……!」
 思わずそう叫び、陽は焔に向かって走り出した。しかし直ぐに周囲の大人に阻止され、それでも陽は叫ぶようにその名を呼んだ。
「友達がいるんだ!」
 押さえ付ける大人に向かいそう怒鳴ると、ひとりの男が陽の肩を掴み強くゆすった。
「大丈夫、落ち着いて。あっちに助け出された人が救急車を待っているから、見に行こう」
 陽は涙をぬぐい何度も頷いて、手を引く男について走った。
 少し離れた場所には男の言う通り、数人の人の姿が見て取れた。蹲っていたり、寝かされていたり、気が動転したのか周囲の人に何かを訴えている者もいる。それには目もくれず、陽は怪我人の群れの中、聖月の名を呼んだ。
「陽、こっちだ!」
 突然背後から名を呼ばれ、驚いて振り返る。そこには聖月の父一族の男の姿があった。陽も何度か顔を合わせていて、覚えがあった。
 男の元に駆け寄ると、探し求めていた聖月の姿がそこにはあった。けれど小さな身体は力なくその腕の中に抱かれている。もう暗くてよくは見えないが、男は汚れたタオルで聖月の額辺りを押さえていて、細い左腕は赤黒い血に濡れていた。
「酷い怪我なんだ。直ぐにお母さんに連絡してあげてほしい」
 陽自身も酷く取り乱していたが、促されるまま柚月に電話を掛けた。しかしその到着を待つ事なく、救急車に乗せられ聖月は病院へと搬送された。

 眠り続けた聖月の意識が戻ったのは、それから丸一日経った頃だった。
 頭を強く打ち、左眼の上を深く切っていたものの聖月の命に別状はなく外傷も火傷ではなかったが、火傷ではないのなら一体何によってそれ程深い傷を負ったのか。陽には分からなかったし、面会が許される頃になると聖月の心のケアが最優先であると陽自身も思っていたから、何があったのか問う余裕もなかった。

 そして聖月が搬送されて一週間程経った頃だった。
「もうすぐ聖月も退院だね。お父さんも、直ぐに退院出来ると良いな」
 二人とも詳しくは聞いていないが、聖月の父もこの病院に入院しているらしい。大人達からは火傷が酷く、面会謝絶との説明を受けていた。
「そうだ、ギターはおじさんが助けてくれていたよ。今はうちで預かっている。本当に良かった。オリジナルセルマーなんて、滅多に手に入らないもの」
 マカフェリギターを産んだ工房であり、ジャンゴも愛用していたセルマーのマカフェリギター。現存するものは千本と言われている。聖月の父が代々受け継いでいたギターが、そのオリジナルセルマーだった。やはり音が格段に良く、基本的に頓着しない聖月もその音がとても気に入っていて、最近父からそれを引き継いだのだと嬉しそうに言っていたのだ。
 その知らせに喜ぶと思っていたが、聖月は終始俯いている。入院してからはずっとそうだった。余程ショックが大きいのだろうと、陽は聖月の手を握り、優しく微笑みかける。
「早く退院して、また一緒に弾こう」
 小さくとも頷いてくれると思っていた。けれど、白いシーツを見詰めながら、聖月は掠れた声で呟いた。
「指が、動かないんだ」
 包帯の巻かれた左手の二本の指は、二度と動く事はない。もうギターは弾けない。聖月はそう言って、初めて涙を落とした。陽は何も言ってやる事が出来ず、泣き崩れる聖月をそっと抱き締めてやるばかりであった。

 けれど絶望は畳み掛けるように、退院してから直ぐ、父は既に死んでいた事を知らされた。

 その事件をきっかけに、聖月は変貌した。はにかんで微笑む度にふっくらと膨らんでいた頬は痩け、陽を見上げて煌めいていた瞳は暗く淀み、滅多に口を開くこともなくなった。それは柚月も同じで、けれど人前では痛々しいほど気丈に振る舞ってはいた。
 これだけの凄惨な事件にも関わらず新聞やニュースでもそれ程大きく報じられる事はなく、複数人いたらしい犯人が逮捕されてからは直ぐに消え失せた。相変わらず陽は事件の全貌を知らなかったし、聖月の心を癒してやる事以外に何も関心がなかったから、それについて思うことも何もなかった。

 それから暫くして、包帯も取れた頃を見計らい陽は預かっていたギターを新調したギターケースに入れて聖月の家へ向かった。
 随分と窶れた柚月は快く陽を招き入れてくれたが、ギターからはそっと視線を逸らした。そんな柚月を気遣い、陽は挨拶もそこそこに聖月の部屋へと真っ直ぐに向かう。扉を開くと、聖月はまだベッドのうえで横になっていた。
「聖月、ギターは弾ける」
 突然のことに驚き一体何事かと聖月は目を丸くしているけれど、まるで気にすることなく陽はベッドに腰を下ろしひとつの動画を目の前に突き付けた。
「これを見て。ジプシー・スウィングは、このギタリストが作ったものなんだ。ジャンゴも若い頃に火傷を負って小指と薬指が殆ど動かなくなっていたんだよ」
 聖月は昔から人に興味があまりにもなく、ジャンゴすらも名前だけ認識している程度であった。勿論曲は知っているし好きで聴いてもいたが、それが弾き手に直結しない不思議な思考を持っている。だからジャンゴの事もあまり知らずに生きていたのだ。
 そんな聖月に、陽は根気強く語り掛ける。
「ほら、聖月と同じだ。それでもこんなに素晴らしい音楽を奏でられるんだよ」
 荒い動画、音質だって良くはない。けれどそれでも彼がどれ程優れた音楽家だったか、誰にでも分かるはずだ。
「聖月、俺の相棒は聖月しかいないんだ。聖月以外、俺にはいない」
 陽の言葉に黒々とした瞳が揺れる。
「ギターを」
 震える声がそう呟いた。陽は強く頷いて、重い動作で起き上がった聖月にギターを持たせる。痛々しい傷の残る指で、恐る恐る弦を押さえ、聖月は確かめるように爪で弾く。やはり思うようにいかない。まだ痛みもある。これまでとは比べ物にならない拙い旋律を奏でながら、聖月は大きな瞳から涙を落とした。
 父との思い出が詰まったギター。疑う事のなかった栄光。突然訪れた絶望────けれど、音楽が光となる。陽はそれを信じてやまなかったし、その奇跡的な才能を失う事が怖かった。

 共に歩もう。例え再び悲劇が訪れようと、魂の呼ぶ声に導かれるままに────。

 遠き日のパリ。悲しみに心を砕かれた幼い二人はやはり永遠を信じた。陽がパリを離れても、決して二人の絆が朽ちる事はない。いつか必ず、聖月の隣には陽が立っている筈だと。