第二章 ロマの音楽
次の朝、幸福な夢を見ていた陽は、乱暴に顔面を踏み付けられ目を覚ました。飛び起きると、美しい猫が得意げに尻尾を左右に揺らしこちらを見ている。
「お腹がすいたのかいシピ」
優しい声をかけて撫でてやろうとすると、またもや陽の手をするりとかわしシピは颯爽と陽の部屋を出て行った。わざわざ閉めてある扉を開けてまでおちょくりに来るなんて、本当に飼い主に似て人の気持ちを踏み躙ることに長けた猫だ。
寝起きの怠惰感を引き摺りながら階段を降りリビングに出ると、ちいさな庭にぽつんと佇むベンチで聖月は煙草を咥えぼんやりと空を仰いでいた。その膝のうえでしなやかな身体を夢中で擦り付けるシピは、先程見せた小生意気な顔から一変、瞳を細めうっとりとしているようにも見える。
昨晩に引き続いて苛立ちが生まれそうになり、陽は頭を振ってキッチンへ向かった。冷蔵庫を開き、冷たい空洞を前に長く家を空けていた事を思い出す。聖月は基本的にあまり食事を摂らない為、ツアーに出る前には冷蔵庫を綺麗にしておく必要がある。聖月が掃除などする筈もなく、当然冷蔵庫の中の消費期限を見て捨てるなんて事もしない。そう言う面でも、こと生活に関してどちらかと言えば神経質な陽と音楽以外にはまるで頓着しない聖月は合わない。
朝食を諦め水で渇いた喉を潤しながら、体内へと落ちる水音にふと昨晩の曲を思い出す。
あれは、湿気を帯びた日本の夏と言うには少し違和感がある。きっと故郷フランスを想って創った曲なのだろう。怒りや悲しみを感じたのも、そのせいか。
水を飲み終えた陽はリビングへと出た。聖月はまだシピを撫でながら空を仰いでいた。夏場は蚊が入るから開けっ放しにするなと何時も言っているのに、リビングから庭に続くおおきな窓は開け放たれていて、初夏の生暖かい風が嫋やかにカーテンを膨らませている。
陽は窓際に立ち、太陽を真っ直ぐに見据える聖月におはようと声を掛けた。返事はないが、それは何時ものことだ。
「昨日の曲だが、世に出してみないか」
聖月はそれなりに曲を創ってはいるが、全て陽と弾くばかり。ほぼ合作に近いが、陽の認識は聖月の曲である。稀に陽がステージに出る時は『Roma』で演る事もある。だが陽は他で聖月が自分の曲を弾いている姿を見た事がない。『Roma』では客の反応もとても良く、いつも陽はCDなりにすべきだと思っていたし、しないにしても世間に広く知れ渡る努力をするべきだと再三聖月に勧めていたのに、だ。
しかし音楽家として喜ばしい筈の提案にも聖月はぴくりとも動かない。相変わらず鋭い吊り目のしたに嵌め込まれた宝石のような濡羽色の瞳を真っ直ぐ遥か彼方に向けている。
「おい、無視をするな」
これもまた、何時もの事だ。しかしあの曲は埋もれさせたままにするのは惜しい。こんな借家のリビングで終わらせるべき曲ではない。
「聞けよ聖月。あの曲はいい。俺には自信がある。絶対に大きな反響もある。眞鍋聖月と言うギタリストの存在を世界中に轟かせるだけの力がある曲だ。パリに戻っても良い。いや、あの曲の為にパリに戻るべきだ。それ位の曲なんだぞ」
陽の熱弁も、聖月には届いていない。それどころか愛おしげに聖月の指に擦り寄っていたシピが、うるさいとでも言いたげにこちらを見詰めている。陽は思わず深い溜息を吐いた。
父と母が離婚し、母とともに日本に来てもう十年。音楽は何処でも出来る。そう思っていた。けれど、やはり聖月を前にするとそうは思えない。彼は伝説になれるだけの才能がある男だ。ハンデがそうさせるのではない。ギターの腕も勿論あるが、それよりももっと根本的な、本能的な部分で聖月は類い稀な才能と情熱を持っている。
そもそもロマの民族音楽とスウィングジャズを融合させたジプシー・スウィングと言うものは、世界でも珍しくジプシーのいないこの日本では全く浸透していない音楽である。これから広く浸透して行くとも正直なところ思えない。だからこそ、五年前に聖月が日本に来た事が陽は不思議でならなかったし、惜しいとも思った。フランスにいたならば、もう既に世界的なギタリストになっていたはずだ。とは言え、本人がまるで名声を求めていない事が一番の原因なのかも知れない。
こうしていても仕方がないし、陽は諦めて怒らせていた肩を落とした。
「珈琲、呑むなら淹れるが」
何となくそのまま立ち去る気になれずに投げた問いに、これまで無反応を貫いていた聖月は徐に立ち上がると、真っ直ぐに陽を見据えた。突然の事に身構える陽に、皮肉な笑みが向けられる。
「おまえの珈琲はまずい」
陽の脇を通り過ぎ、聖月はソファに身を投げる。余りにも鮮やかに善意が蹴散らされ、陽は怒りを通り越し呆れに溜息を吐いた。
そのまま各々言葉も交わさず好きに過ごし、空がゆっくりと茜色に染まろうかという頃。その日陽は町田から今日は聖月を引き摺ってでも連れて来て欲しいと内密に連絡を受け、気分が乗らない様子の聖月を連れて家を出た。どうやら最近の聖月の態度に元来温厚な町田も限界らしい。
町田の零す愚痴によれば、一曲しか弾かない日はまだマシで、逃亡する事もよくあるそうだ。たまたまツアーが終わり休暇に入った今は陽がこうして家から首根っこを掴んで連れて行く事も出来るが、陽とて忙しい身。この後直ぐにゲストとして別のバンドのツアーに参加する事にもなっているし、常に聖月のお守りは出来ない。
何とか今日中にカタをつける事が出来ればそれに越した事はないのだが、逃亡の理由もリズムギターが気にくわないと言うだけならまだ良い方で、聖月の場合雨が降っているからとか、寒いから暑いからと言う理由で弾かない事もあるだけに、今日だけで改善するとはとても思えないのが本心だった。
それでもハングリー精神もなく、ヒモ同然に居座る幼馴染の腕を買って使ってくれている町田の為にも、何より聖月の才能を少しでも沢山の人に知ってもらう為にも、陽は並々ならぬ使命感を持って家から歩いて僅か十分程度の店へと向かった。
道中会話らしい会話はない。聖月は相変わらず陽の言葉を聞いているのかいないのか。尖った横顔を時折伺いながら、陽は知れず溜息を噛んだ。
足取りの重い聖月を引き摺り店に着くと、町田が忙しなく開店準備を進めていた。いつもより念入りに掃除をしているところを見ると、今日は誰か大切な客でも来るのだろうか。
「こんにちは」
カウンターを磨く丸い背中に声を掛ける。振り向いた町田の額には、薄っすらと汗が滲んでいた。
「やあ、有難う陽、すまないね」
「いえ、こちらこそ聖月がいつもすみません。今日は何かあるのですか」
陽の問いに、町田の小さな目は見開かれ輝きを増す。
「今夜、プライベートで来日しているロミワルドとロベルトがこの店に来るんだ。知人が紹介してくれてね」
それには陽も思わず声をあげた。
ロミワルドとロベルトとは、海外で人気のあるバンドのメンバーで、今やジプシー・スウィング界隈では若手筆頭の有名なギタリスト二人だ。こんな店に来るなんてまさに奇跡としか言いようがない。
町田は驚く陽を熱い瞳で捉えながら、興奮気味に肩を揺らした。
「聖月ならば彼等をこの小さなステージに引き摺りあげる事も出来るはずだ」
なるほど、それで意気込んでいたのか。そう合点がいったが、陽から逸れた町田の瞳はカウンターにもたれ怠惰な態度で煙草を咥える問題児に流れて行った。
「だからせめて三曲は頼むよ、聖月」
この店にとっても、聖月にとっても、これは一世一代の大チャンスだ。ロミワルド達が気に入れば、聖月が世界的に有名になる可能性は十二分にある。可能性ではない。聖月が本気を出せば、それこそロミワルドやロベルトでさえいとも簡単に魅了する事が出来る。どう本気を出させるか、それが問題なのだが────。
「何が気にくわないんだ」
一瞬深く思考していた陽の耳に、焦りを帯びた町田の声が届く。ふと視線を向けると、聖月は不機嫌をあらわに紫煙を吐いていた。これではまた今日も気乗りのしない演奏をし兼ねない。
しかし聖月は町田の問い掛けに答える気もないようで、町田自身も聖月の性格をよく分かっているだけに、それを望んでもいなかった。
「ポンピストと合わなくても我慢しろ。こんな店に腕の良いプレイヤーが雇える訳がないだろう。とにかく今日は頼むぞ」
それだけ言って店の外へと出て行く後ろ姿を陽は複雑な気持ちで見送った。
ギターケースからギターを取り出し、先の町田の言葉など聞いていなかったかのように聖月は咥え煙草のままチューニングを始める。
「ロムに気に入られれば、パリに戻る事も出来るんだぞ。何度も言うが、今の知名度なら日本ではせいぜいこのレベルだ。そんなに嫌なら帰国も考えるべきだ」
陽の言葉に、聖月は小さく鼻で嗤った。まるで、興味がないとでも言いたげに。
音楽のうえでは誰より深く聖月を理解し、誰より強く繋がる事が出来るのに、今は何ひとつ理解も出来なければ感じる事が出来ない。不思議なものだ。
伏し目がちの瞳から真っ直ぐに伸びる長い睫毛を見詰め、幼い日を想う。出会った頃はまだ聖月は恥ずかしがり屋で、引っ込み思案で、けれどいつも猫のようなおおきな瞳で陽を追い掛けて。聖月の方が年上なのに、陽が兄のように手を引いてやっていた。
「あの頃はまだ可愛げがあった」
思わず溢れた言葉に何の反応も返ってはこず、陽は何度目かの深い溜息を吐いた。
それから直ぐにジャズバー『Roma』は開店。いつも通り疎らに客が小さな木戸をくぐり狭い店内に自分の居場所を作り始める。陽はカウンターの端に陣取り、町田が待ち侘びている二人を待っていた。
演奏が始まる十分前。気付けば店内には人が溢れかえっていた。頻繁に陽の背に肘やら肩やらがぶつかる。これだけ狭いのだから仕方がないが、その度美味い酒から意識が一瞬遠退くことが不快だった。
突然、そんな陽の肩が強く叩かれた。
「陽じゃないか!」
陽の耳に届いた言葉は、日本語よりもよっぽど耳に馴染んだフランス語だった。振り向いたそこには、長い栗色の髪を後ろでひとつに縛った笑顔の男と、オールバックに決め込んだ愛想のない男の姿。
陽は二人を交互に見やり、苛立ちに曲げた口元を綻ばせた。
「久しぶりだな、ロム、ロベルト」
「まさかこんな所で会うとは思っていなかった!」
人懐っこい笑みを惜しみなく陽へと向けながら、ロミワルドは嬉しそうに陽の肩を抱いた。
「坊やだったのに、随分見ないうちにイイ男になったな」
陽とロミワルドは、まだパリにいた時に会った事があった。彼等のバンドはギター四本と言う編成で、まだ幼かったとは言えその特出した才能が巷で大いに噂となっていた陽はゲストとして彼等とステージを共にしたことがあったのだ。人懐こいロミワルドも気難しいロベルトも、相変わらず陽の記憶と何ら変わりなく、まるで歳だけとったようだ。
その時、ロミワルドとその後ろに控えるロベルトを横目で見詰めていた周囲から拍手が湧いた。揃って視線を向けると、丁度ステージ横のちいさな扉から聖月とバンドの面々が姿を現した所だった。
聖月は相変わらず目深にキャップを被り、猫のような吊り目を隠している。口元にはこれまたいつもの如く、煙草を挟んで。今日は事実上聖月の相棒であるバイオリニストの嶋田がいると言うのにその表情はあまり浮かれてはいないようで、陽は今日も気乗りのしない演奏になるだろうと予感した。
「ロムには少し、物足りないかもしれない」
そう取り繕いつつも聖月の実力はこんなものではないと弁解しようとする陽を、ロミワルドは指先で制した。
「彼の演奏は聴いた事がある」
「本当に?」
驚く陽に軽い目配せを送り、ロミワルドの薄い唇が微笑む。
「だからここに来た」
え、と漏らした瞬間、演奏が始まった。
相変わらず盲目的に陶酔する群衆。木板の床を叩く爪先のリズムが次第に大きくなり、人々の肩が揺れる。しかし周囲の熱気と相反し、やはり陽の心は冷えてゆく。
「何故、彼の相棒が陽ではないの?」
リズムを刻むギターとバイオリンソロの隙間に潜めた声で囁かれ、陽は答えもせず乱暴にグラスを煽った。
「僕は君と彼は一緒にやって行くのだと思っていたのだけど」
確かに聖月が日本に来た時はそのつもりだった。けれど知らぬ間に聖月は嶋田を見付けていて、結果今に至っているのである。
「まあ、成り行きで」
それについて多少どころではない面白くなさを感じていた陽は、曖昧に微笑んでまた酒を乱暴に煽った。
その日も聖月が痺れを切らしたのは、一曲目が終わった瞬間だった。拍手が沸き起こるより早く立ち上がると、不機嫌な背中は足早に去ろうとしている。せっかく来日した二人の為と言うより、これを一世一代のチャンスと見ている町田の為、陽は無意識に腰を上げていた。
しかし、声を発するより早くロミワルドの大きな手がその肩を引いた。驚き振り向くと、肩と肩がぶつかる程狭い店内でロベルトは器用にギターを構えている。
「任せて」
ロミワルドが小さな目配せとともにそう耳打ちした瞬間、ロベルトがリズムを刻み始めた。
先程まで聴いていたものは何だったのか。これが本物、世界トップクラスの音だ────。かつて共に演奏した頃より段違いに巧くなっている。プロに囲まれて日々生きている陽でさえ背筋を駆け上がる悪寒に震える程だった。
その圧倒的な実力を前に、耳の良い聖月が立ち止まらない訳がない。
「もうお帰りかい」
フランス語で囁かれた挑発に、客は何と言ったのか耳打ちをし合う。ステージ上のバンドの面々は皆目を丸くして世界的なギタリスト二人を見詰めている。半分扉に足を踏み入れていた聖月は、鋭い瞳を流し、ロベルトの指先から続く音色にゆっくりと頬を持ち上げた。
町田の狙い通り、ロミワルドとロベルトは聖月をその気にさせた。陽があれ程に苦心していたにも関わらず、ギター一本で。二人が舞台に上がると、行き場をなくした若きポンピストが人目を避けるように小さな扉から出て行った。それを追うように、陽は人混みを掻き分け店を出た。背後から逃すまいと始まった音楽を蹴散らすよう、乱暴に。
彼を気に掛けて、と言うより、陽もまたその青年と同じ気持ちであった。疎外感────。それに似ている。音楽家として成功を収めている今、今更こんなちいさなバーで演奏する事を熱望するわけがない。陽が頼めば誰だって二つ返事で快諾してくれる。
それでも何故、こんなにも胸が軋むのか。何故、聖月は嶋田など選んだのか。何故自分ではない。何故────。
焦燥に胸を焦がしながら店先に立ち竦んでいると、逃げ出した青年が裏戸から顔を覗かせた。陽を見付けて驚いた瞳は、直ぐに暗いアスファルトを写す。
「待って」
立ち去ろうとする青年を慌てて呼び止め、陽は微笑んで見せた。
「田野辺くんと言ったかな」
青年はバツが悪そうに小さく頷く。
「聴いていかないのか」
ロミワルドとロベルト、それに聖月が加わって演奏するなど、二度とは聴けないかも知れない貴重な機会。音楽家ならば何を置いてでも聴きたいはずだ。
田野辺は陽の問い掛けに小さく頷くとゆっくり息を吐き、自嘲するように笑った。
「身の程を知りました」
その言葉に、また陽の胸が軋む。
「どうせ、遅かれ早かれやめようとは思っていたのです。僕は、聖月さんに憧れて今通っている音大に入ったんです。少しでも一緒に演奏出来て、凄く嬉しかった」
けれど────そう続けて、青年は虚ろな瞳に涙を滲ませた。
「絶望しました。聖月さんは音大なんて出ていない。譜面も読めない。それでも、僕では到底及ばない位置にいるのです」
無情な現実を前に、掛ける言葉はなかった。青年にとって陽は聖月側の人間であり、さらに言えば既に成功を手にしてしまっているのだから。どんな言葉も、嫌味にしかならないだろう。
幼い頃から神童と呼ばれた陽でさえ、バイオリンを始めてより今日まで、弾かなかった日は一日もない。聖月に関して言えば、食事も摂らずギターを弾いているような男だ。技術的にも並ぶ事は難しいと言うのに、それで劣等感を感じ音楽そのものを楽しめていないこの青年にとって、苦行にも感じられた事だろう。
青年はまた深く息を吐き、漸く顔を上げて陽を仰いだ。
「この音楽はロマの作ったものです。だから、僕のようななんの才能もない人間はロマの血を引く彼に並ぶ事なんて出来ない。……分かっています。音楽の本質はそうではないと。けれどそう思わないと大切なものが壊れてしまいそうで」
そう言う青年は不思議と、吹っ切れたような顔をしていた。
「僕はもう音楽を辞めます。でもずっと、この音楽を愛しています」
その言葉は、陽にとってせめてもの救いだった。
「そう、元気で。聴きたくなったらまたここにおいで」
田野辺は照れ臭そうに微笑み、深く頭を下げる。そして振り返る事なく夜の街へと消えて行った。
店内から割れんばかりの拍手が起こる。陽のいない世界で、聖月が喝采を浴びている。それを望んだ筈だ。これでいい。聖月が世界へ羽ばたくために、尽力して来たのだから。そう言い聞かせ、陽は熱狂する店へと戻った。
結局ロミワルドとロベルトは一曲弾いただけで、その後は客のサイン攻めにあい店内は一時騒然となった。陽はカウンターの隅で酒を飲みながら騒ぎが収まるまで待っていた。どう言う訳か、バンドの面々が続々と帰る中普段誰よりも早く帰宅する聖月も店が閉まるまで裏にいたらしい。
漸く静寂を取り戻した閉店後の店内で、三人は改めて顔を合わせた。
「聴いてくれなかったのか」
むくれたロミワルドに、陽は曖昧に微笑んで見せる。
「すまない、少し話したい人がいて」
納得したのかしていないのか、ふとロミワルドは思い出したように聖月がいるであろうステージの裏側を顎で指した。
「何故彼はもっと高い所へ飛ぼうとしないのか、不思議だ」
「さあ、気まぐれな奴だから」
やはり誰もがそう思うだろう。何故聖月はここで、気に食わないポンピストに不機嫌になる毎日を送っているのか。町田に恩義を感じるタイプでもない。
丁度そこで裏に隠れていたらしい聖月がステージの扉から店へと出て来た。相変わらずの咥え煙草で、相変わらずに態度が悪い。それを叱責しようとする陽より先に、ロミワルドは聖月に手を差し出した。
「やはり最高だよ、君は。どうだ、俺たちとやらないか」
ロミワルドがそう感じるのも当然だ。当然だと分かっているのに、陽の心臓が竦みあがる。不気味な高揚感を消し去りたい一心で乱暴に酒を煽ってみたが、どうにも動悸が治まらない。
青褪める陽の背後で、聖月は思わせぶりに間を取って、小さく笑った。
「気が向いたらな」
その答えに、陽は漸く息を吐き出した。呼吸が止まっていた事にすら気付かぬ程動揺していた事に驚きつつ、平静を装いグラスに残った酒を呑み下す。そんな陽の耳元に、ロミワルドは唇をよせた。
「陽、いいのか?あまり悠長に構えていると、直ぐにでも他の誰かに取られてしまうよ」
何を言っているのだとロミワルドを振り返ると、蜂蜜色の瞳は悪戯に微笑んでいた。
そのまま聖月が挨拶もせず店を出ようとするものだから、連絡先だけ交換し、別れの言葉も曖昧に陽も慌ててその後を追い珍しくふたり肩を並べて帰路につく。心なしか、聖月の尖った横顔は浮かれて見えた。
「どうだった、二人は」
やはり珍しく上機嫌なのか、陽を振り返ると聖月は嬉しげに瞳を煌めかせた。
「聴いていただろう。巧いな。久しぶりに楽しかった」
陽がいない事に気付いていなかったのか。それに、久しぶりと言う事は、家で二人で演奏していた時は楽しくなかったと言う訳か。それを知るや、無理矢理に押し込めた焦燥がまた胸を掻き毟る。
「なあ、友達なんだろう。またあそこに呼んでくれよ」
ガラにもなく無邪気な聖月の言葉が、針のように胸を刺す。陽は返答もせず、少し前を歩いていた聖月を振り切るように足を早めた。
「陽」
驚いたのか、背後から聖月に呼び止められるも、その足が止まることはない。
「陽!」
珍しく慌てて駆け寄る聖月が追い付く頃には、短い道程は終わり既に家の玄関先にまで到達していた。
鍵を乱暴に差し込み扉を開き、そのまま自室に直行しようとしていた陽は、靴を脱いだ所で肩を掴まれ漸く足を止めた。
「何を怒っている」
「怒っている?俺が?何で」
「知らないから聞いてる」
やめてくれ────そう胸の内で叫びながら、陽は怒りにも似た騒めきを鎮めようと躍起になる。けれど、どうも上手くいかない。
陽の肩を掴み見上げる聖月の顔は、不思議と幼い日のまだ愛らしかった少年のようだ。聖月があの頃のままであったなら、ふたりは上手くいっていたのではないだろうか。聖月も嶋田レベルで満足はせず、陽を求めていたのではないだろうか。
訳の分からない苛立ちに紛れ、陽は聖月を真っ直ぐに見下ろした。ロミワルドの言葉ばかりが思考の真ん中を彷徨っている。
「なあ、俺と組まないか」
その答えが望むものであった時、きっとこの焦燥は昇華される。この男に選ばれるものは、やはり自分以外にはいないのだと確信出来る。
けれど聖月は酷く驚いたように目を丸くし、そして直ぐに元々鋭い吊り目を尖らせた。
「今更、それを言うのか」
予想外の言葉に、今度は陽が驚く番だ。押し退けるように強く肩を押されよろけているすきに、聖月は大袈裟に足を鳴らし自室へと向かう。慌てて肩を掴み、立場が逆転である。
「待てよ聖月」
「触るな」
手を払われて、怯む陽を睨み付ける聖月の瞳には、息を呑む程の憎しみにも似た重い感情が渦巻いていた。
「おまえが俺を選ばなかった癖に」
再び投げ付けられた予想外の言葉に当惑している隙をついて、聖月は階段を駆け上がって行ってしまった。聖月の言葉に当然まるで覚えはない。日本へ来た事かとも思ったが、それは親の都合であり陽がどうにか出来る事でもない。聖月もそれは理解している筈だし、幼馴染が外国へ行ってしまう事に寂しさはあったとしても、こうして今は共に暮らしているではないか。聖月が日本に来ると聞いた時、どれ程嬉しかったか。例え一時離れたとしても二人でやって行く事に、何の疑いもなかった。
暫く玄関で呆然と考え込んでいたが、ふと陽は我に帰りかぶりを振った。馬鹿馬鹿しい。聖月の下らない思い込みだ。そう決め込んで、もう随分と遅い時間と言うこともあり陽は急いで寝る準備を進めた。
風呂から上がり戸締りも確認し終わり、陽は先程聖月が乱暴に駆け上がった階段を上がった。ふたりの寝室はそれぞれ二階にあり、隣り合っている。互いに音楽以外で干渉することがまるでなく、陽は聖月の部屋を見た事もない。片付けが下手と言うか、苦手だから、きっとすごい有様なのだろうと思うだけである。
ただその日は、やはりどうにも納得がゆかず思わず聖月の部屋の前で足を止めていた。だがどう言葉を掛けていいものか。友人でもなく、親友でもなく、相棒でもなく、だが互いに絶対的な何かを感じて共にいるふたりの絶妙な距離は、こう言う時に酷くもどかしい。
ふと、立ち尽くす陽の耳にギターの音色が掠めた。陽は半ば無意識のうちに自室に向かい、バイオリンを取り出すと迷う事なく聖月の紡ぐ音に音を重ねてゆく。全く聴いた事もない、単なる即興音楽。顔も見えず、壁一枚隔てた向こう側。それなのに、不思議とふたりの奏でる音が絡み合い、融け合うようにして旋律となってゆく。正に奇跡的な融和性。
聖月と共に音楽を奏でる度に、他のどんな行為でも感じる事の出来ない快感がいつも陽の身体の奥底を燃え上がらせる。果ててしまいそうな程の恍惚の焔に焼かれ、心ばかりが熱を上げる。
やはり、聖月に相応しいものは自分でしかあり得ない。
その激情をぶつけるように、陽は夢中で楽譜もないその瞬間だけの曲を弾いた。引くでもなく、押すでもなく、譲るでも張り合う訳でもなく、聖月はギターを掻き鳴らす。その中で確かに感じる、聖月の心。同じように陽を欲し、しかしそれが叶わぬ事を知りながらそれでも尚本能だけが求め続ける慟哭のような旋律。ふたりの心は同じ焦燥を感じている。
まるで即興とは思えぬ程びたりと音が止み、ゆっくりと弓を下ろした時には、酷く息が上がりじっとりとした湿りが髪を濡らしていた。そのまま無意識のうちに、陽は聖月の部屋の壁に触れていた。そして胸の内で問い掛ける。何故これ程まで互いに求めていながら共に歩めないのか。
何故、俺を選ばなかったのか────と。