第一章 三本指のギタリスト


 初夏を迎えた東京の片隅。今日もちいさなバーに灯りが灯る。
 木造りの軋んだ扉を開くと薄暗い店内には人が溢れ、カウンターにもテーブルにもつけぬ人々が多く見受けられる。しかしグラスを片手に、誰もが陶酔したように爪先でリズムを刻む。最奥のちいさなステージからは、情熱的で軽快なギターの音色が狭い店内を圧すように掻き鳴らされていた。
 バンド構成はウッドベースとギターが三本、それにクラリネット。二本のギターによる独特のリズムバッキングの子気味良く軽快な音の坩堝の中に於いても突き抜けた早弾きで格段に目立つソリストは、音楽を齧った人間なら思わず耳を奪われ、かつその驚くべき指捌きに魅入ってしまう事だろう。幾ら店内が狭いとは言え、飲み屋特有のさざめきの中機械に頼らず生身の音で客を魅了するその技巧は、こんなしみったれた店には到底釣り合わないほど。客は相変わらず爪先でリズムを刻みながら、皆そのギタリストの指先に釘付けとなっている。
 他のギタリストの持つギターとは違い、オーバルホールの使い込まれた古いマカフェリ・ギター。分厚いピックで切れそうな程強く弦を弾く度、硬く尖っていながらも深い響きを持ち何処か暖かみのある独特の音が狭い店内に放たれる。
 しかし客の視線を独り占めする、草臥れたキャップを目深に被ったそのギタリストは、切れ上がった目尻を細め左後ろのクラリネット奏者へ視線を流す。即興のギターソロからクラリネットソロへと移り変わる一瞬のタイミングを合わせようとするアイコンタクトとは思えない程その鋭い眼光は攻撃的で、咥え煙草もさる事ながら、お世辞にも態度が良いとは言えない。

「聖月の『Les yeux noirs』はいつ聴いても最高だな。今日は少し荒いが、それも良い」
 バーカウンターで恋人と肩を寄せ合いウィスキーを舐めていた白崎 陽は、隣で熱い視線を送る男の言葉を密かに鼻で笑い飛ばした。
 わざわざジプシー・スウィングを聴きにこのバー『Roma』に来ている癖に貧相な耳だ。確かにその飛び抜けた技巧だけでも聴く価値は多分にあるが、今日の聖月はまるでノっていない。あの若き天才ギタリスト、眞部 聖月の本気はこんな物ではない。それを知っているだけに、陽は今耳に触れる無様な演奏が不快で仕方なかった。
 クラリネットの短いソロが終わりテーマへと戻り、四分程の曲が終わると客は大喜びで口笛を吹き気が触れたように手を叩く。それもまた気に食わない。周囲の喝采を蹴散らすよう、陽は不機嫌に酒を煽った。
「聖月、もう終わり!?」
 背後の女が酒に焼けた声で叫び、周りもそれに続けと囃し立てている。今日はまだ一曲しか演っていないはずだが。そう思い背を向けていたステージに視線を流すと、丁度ギターを手に聖月がステージの隅にあるちいさな扉にハケてゆく所だった。周りのメンバーは顔を見合わせ、あからさまに困惑している者と、呆れたような顔付きの者がいる。
 また悪い癖が出たか、と胸の内で零し、陽は控え目な舌打ちを投げた。
 未だ熱望する喧騒の中、隣の男は耳元に唇を寄せ、不愉快な声で囁いた。
「陽さん、あんた聖月の相棒だろう」
「誰があんな傲慢な男の相棒なもんか」
 吐き捨てるような陽の言葉に驚く事もなく、男はうっとりと瞳を細めた。
「だがギターの腕は正しく天才だし、左手に障害があるのもいい。まるでジャンゴじゃないか。さしずめおまえは、グラッペリか」
 それには普段温厚だと自負している陽の頭にも一気に血がのぼる。まだ二十五歳と言う若さは煮え立つような怒りに抗う事も出来ず、このバーの常連であり、聖月と陽の大ファンでもある男の胸倉を掴み上げた。
「二度と俺の神を愚弄するな」
 フランス人の血が混じる深縹色の瞳を細め、通った鼻梁に皺を寄せ威嚇する陽を前に、男は酒でのぼせた頭から血の気が引いたのか、蒼白な顔で只々間近に迫る陽の美貌を凝視している。
「ちょっと、やめて」
 透き通る美声とともに優しく肩を引かれ、陽は我に帰り男の胸元から手を離した。すまなかったと謝罪した相手は、男ではなく陽の肩を引いたとびきりの美人。
「ねえ陽、どうするの」
 軽やかな微笑みと共にそう問われ、陽もまた微笑んで見せる。恋人である佐伯 紗綾に促されるよう、カウンターの向こう側のマスターから、目配せひとつで預けていたバイオリンを受け取った。
「少し待っていて。退屈はさせない」
 陽はそう囁いて、恋人の頬に口付けた。
 先程まで熱狂していた客が、いつの間にかそんな美男美女の掛け合いを目で追っている。
 陽は身体中にその期待に満ちた視線を浴びながらも、優雅な動作で立ち上がり群衆に分け隔てなく微笑んだ。
「気まぐれな友人の非礼を詫びて、僕から皆様に一曲」
 落胆から一転、群衆は歓喜に沸いた。こんな所であの白崎陽の演奏が聴けるなんて、と声を震わせる年配の男。癖のない鳶色の髪を靡かせステージへと向かう美貌のバイオリニストの背中に黄色い悲鳴を上げる女。それでもやはり聖月の音が聴きたいと愚図る輩。
 友人などと、先程吐いた自分の言葉に苛立ちながら、陽は耳を犯す雑音の中密やかに吐息を噛んだ。
 ステージにつくや、陽は揃って間抜け面をぶら下げる面々の顔をゆっくりと視線で舐めた。
「『swing42』で行く。一曲で締める」
 慌てて頷き、各々楽器を持ち直す。
「君がソロを頼むよ。無理して引っ張らなくていい」
 ソリストとなった男は突然の事に困惑した様子だったが、他のジャズと異なり、リズムギター専門のプレイヤーを入れる事が多いと言う点で見ても、ジプシー・スウィングに於いて、ポンプと呼ばれるリズムギターは簡単なものではない。ある程度の演奏はしてくれるはず。
 とは言えそれ程過度な期待はしていなかったが、不本意ながら陽が先導するような形で曲が始まってすぐ、陽は聖月の不機嫌に納得がいった。このジャンルを選んだにも関わらずまるで音楽を楽しもうともしない浮ついた音ばかり。今日は終始聖月の不機嫌な音に意識を奪われていたが、これではあの神経質な男が怒るのも無理はない。
 しかし激情家とは言え陽は聖月ほど気が短くはない。先程の男に怒りをぶつけたのも、言われた言葉がそれだけ重かったに過ぎず、ギターの下手なソロを払拭するかの如く若き天才ジャズバイオリニストの腕を存分に見せ付け客を満足させてみせた。

 飛び込みの演奏も終わり、耳が痛い程の拍手を浴びるだけ浴びて恋人と共に店を出たところで、バーのマスターである町田が慌てた様子で飛び出してきた。
「助かったよ陽。せっかくのデートなのに悪いね。ツアーから帰って来たばかりだと言うのに、本当に申し訳ない事をした」
 そう言いながら封筒を手渡そうとする初老の男の腕を優しく制しながら、陽は困ったように微笑んだ。
「いえ、今日は起きてからずっと機嫌が悪かったのでそんな気はしていました。聖月が御迷惑をお掛けしている罪滅ぼしです」
 すまないねえ、と何度も零しながら、町田は痩せた瞳を細めた。
「腕は良いのにねえ、あれではとても。嶋田さんがいれば、少しはマシなんだけど」
「……そうですね。では、僕はこれで」
 軽く頭を下げ踵を返すと、町田は背中越しにありがとう、と何度も繰り返していた。
 高いヒールを履く紗綾を気遣いながら国道まで出て、陽はすぐさまタクシーを探した。
「今日も帰るの?」
 紗綾にそう問われ、思わず申し訳なさに柳眉が垂れ下がる。
「ああ、すまない。埋め合わせは必ず」
「気にしないで」
 大人の余裕か、五歳年上の恋人は美しく微笑んだ。か細い身体を抱き締めて、陽はちいさな額に口付けた。
 ジャズシンガーである紗綾は、美しく、気高く、そして誰よりも陽を想ってくれる素晴らしいひとだ。仕事のパートナーとしても相性が良く、二人はつい昨日全国ツアーから帰ったばかり。客の入りもかなり良く、公私共に順調である。何処を探しても二度とは見付からない程、紗綾は陽にとっては理想の恋人だった。

 紗綾を無事にタクシーで送り届け、家に帰り着く頃には既に日付は変わっていた。閑静な住宅街の一角に建てられた二階建ての一軒家は借家だが、一階は広いリビングとダイニングキッチン、二階に三部屋あり、そのうちのひとつは防音となっていて、庭もあり陽はとても気に入っている。
 玄関を開くとすらりとした短毛の美しい白猫がまるで陽が帰宅する事を知っていたかのように、足を揃えて座っていた。
「ただいま、シピ」
 屈みこんで喉元を指先で撫でてやろうとした途端、シピはつんとそっぽを向いて去って行った。名前の通り、とんだ小悪魔だ。それとも、飼い主に似てしまったのか。
 思い出した苛立ちを再び燃え上がらせ大股でリビングに向かうと、陽の好みで選んだアンティークのソファに深く身を沈め、聖月は何時ものようにギターを弾いていた。彼がギターを手放すのは、風呂とトイレ、それに眠る時くらいなものだ。
 肩に掛けていたバイオリンを置き、陽はふつふつと湧き上がる怒りを胸に聖月の隣に腰を下ろした。
「何故直ぐに途中で放り出す。一曲しか弾かないなんて、あんなに良くしてくれている町田さんを困らせるな」
 咥え煙草の口元は、陽の言葉に薄く微笑んだ。
「おまえの客は酷く耳障りな声を出す」
「そうやって客を選ぶな。それに煩い客などもっといる」
「音の問題だよ」
 生意気な横顔に、陽は思わず奥歯を噛んだ。
 あの店の客は殆ど全てと言っていいほど聖月に陶酔している客だ。たまたま今日陽がいただけで、何より陽とてあの隣に座っていた男の声も言葉も耳障りで、あのバーに行く度会わなくてはいけなくてとても不愉快な思いをしていると言うのに。
 苛立ちに巻かれ、唇に挟まれた煙草を引っ手繰る。緩いウェーブのかかった艶やかな黒髪で左だけ不自然に隠れた猫のようなおおきく鋭い吊り目が陽を捉え、通った鼻筋に皺が寄る。しかし聖月のあからさまな不機嫌を物ともせず、陽は煙草を揉み消した。
「嶋田さんがいなければお前は満足に演奏も出来ないのか」
 帰り際町田の口からも出た嶋田とは、事実上今は聖月の相棒であるジャズバイオリニストだ。腕は良いのだが、聖月と合うかと言われるとそうでもない。だがどうやら二人は人間的に気が合うらしい。
「最近気持ちが悪い。田野辺が来てからだ」
「いいポンピストが欲しいなら、もっと外に出たらどうなんだ」
 今日一緒に演ってみて、確かに聖月がその田野辺と言う最近バンドに入ったリズムギターの男を嫌っている理由は分かった。だが腕の良いプレイヤーは高い。とてもじゃないがあのちいさなバーにそれを雇うだけの財源はない。
 至極真っ当な言葉を物ともせず、聖月は足元に擦り寄るシピの背を指先でなぞった。先程陽を振った癖に、喉を鳴らして甘える猫にすら腹がたつ。

 聖月は陽よりも二つ年上だ。二十七歳にもなると言うのに、我が儘で傲慢。気難しく、聖月を上手く扱えるものがいるとすれば、その嶋田と言うバイオリニスト位。陽が九歳の時に故郷フランスで出逢ってから十六年、共に暮らしてもう五年経つが、酒の趣味、食の趣味、生活スタイルやそもそもの性格が噛み合わず、互いに顔を見れば喧嘩ばかり。一応陽が大人な対応を取るおかげで酷い喧嘩にはならないが、それにしてもよくこんな男と五年も共に暮らせていると自分でも感心してしまう。

 聖月に音楽の才能さえ無ければ────。

 陽が深みに陥ろうかとしていた時、不意に聖月は弦を弾いた。聖月が奏でるギターの音色は、どれ程深く思考していようが強い力で陽を惹きつける。
 口元に微笑みを浮かべながら、聖月は聴いたことのない曲を見せ付けるように弾いてゆく。その音色に引き寄せられそうになりながらも、陽は眉間に皺を寄せた。
「誘うな。今日は気分じゃない」
「新しい曲。どうだ」
 心底愉しげに弦を弾きながら、聖月はふっくらとした幼い唇をうすく開き囁いた。
「le Soleil────」
 太陽か────そう胸の内で噛み締め、陽は堪らずソファの前に置かれたテーブルのうえの譜面を手繰り寄せた。
「もう一度」
 聖月が再び新しい曲を始めから弾き、陽はそれを真白な譜面に書き殴ってゆく。
 聖月にとっての太陽。肌を焼くような猛々しさや、瞼を射抜く鋭さ、しかし全てを包み込むような優しさに、背筋が震える程の深い闇。軽快でありながら日々の幸福に潜む激しい怒りや悲しみさえも含ませた何処か不安定で叙情的な曲に乗せ、夏のからりと乾いた風が香るようだ。
 深く頷きながら、陽は聖月の生み出す新鮮な音を脳内で咀嚼しながら膨らませてゆく。
「いいな……うん、これはいい」
 思わずそう零した陽を横目で見やり、聖月はふふ、と愉しげに笑った。
 大方のテーマが見えて来たところで、遂に我慢出来ず陽は立ち上がると、譜面を置きバイオリンを手にした。
「演ってみよう」
 リビングだと言うことも忘れ、二人は熱く滾る視線を絡める。
 聖月の軽快なリズムバッキングに乗せて、陽は命を吹き込むように『le Soleil』と言う生まれたばかりの曲を育ててゆく。
 聖月と共に曲を作り、普段は反発している互いの心を開きその深淵にある其々の音を絡め合う時に生まれるこの高揚感。陽にはこの譜面さえ読めない天才的なギタリストと最も相性の良いプレイヤーは自分だと言う自負があった。誰より彼を理解し、彼の全てに合わせるのではなく、聖月に新しい風を吹き込み底無しの才能を引き摺り出せるものは、自分以外にはいないのだ、と。

 自分でも気付かぬ程に没頭していると、不意にギターの音がぶつんと途切れた。驚いてソファに視線を落とし、陽は慌てて聖月の隣に腰を下ろした。
「痛むのか」
 聖月の左手は、酷く震えていた。命よりも大切にしているギターをその腕から取り上げ、左手をきつく押さえようとする聖月の肩を抱く。
 聖月の小指と薬指は、聖月が十五歳の時に起きた凄惨な事件のお陰で殆ど動かなくなっていた。髪で隠している左目のうえにも、その時の深い傷がまだ残っているのだ。
 当時の記憶が蘇り、陽は思わず眉間に深い皺を刻みながらも優しく聖月の腰に腕を回した。
「大丈夫、もう痛みはない」
 そう声を掛けながら肘から指先にかけて、優しく撫で摩ってやる。聖月は時折何かをきっかけにこうして錯乱し、まるで自ら傷付けるように左手を力一杯きつく押さえる癖がある。もう、痛みなど感じない筈なのに。幻影の痛みと共に、聖月の心にもまた絶望的な記憶が蘇っているからなのだろう。それが陽にとって何より堪らなく狂おしいものだった。
 普段は互いに牙を剥き合っている事さえ忘れ、陽は自分よりも少しちいさく痩せた聖月の身体を胸に抱き寄せるようにして、その心が落ち着くまで何度も何度も左腕を摩る。その愛情深い行為に、聖月は自覚があるのかないのか、次第に身体を明け渡してゆく。
 深い胸に頬を寄せる聖月の艶やかな黒髪に陽もまた頬を寄せ、瞼を閉じて傷付き壊れた心を優しく撫で続けた。

 随分と長い時間を掛けていると、ふと陽の耳に微かな寝息が掠めた。驚いて瞼を開き胸の中の聖月を覗き込むと、鋭い瞳は瞼のしたに隠れている。
「おい、こんな所で寝るな」
 呆れて乱暴に吐き捨てると、聖月は肩を飛び上がらせて瞼を開いた。それどころか、徐に立ち上がるとギターを手にし酷く不機嫌そうにリビングを後にした。
「礼ぐらい言ったらどうなんだ」
 その背中に投げ掛けた言葉も、何ひとつ意味をなさない。深い溜息を吐いて、陽はソファに深く身を沈ませた。
 バーの常連である不躾な男の言う通り、聖月はあの手の障害と天性の才、そして何よりその身体に半分流れるロマの血故に、ジャンゴ・ラインハルトの再来だとか生まれ変わりだと大仰に謳われる事がフランスにいた頃はよくあった。最高の賛辞ではあるのだが、本人がそれを酷く嫌っている事を陽はよく知っている。
 聖月の傷は美談や信仰に成り得るはずもない、残酷な現実なのだ。そして何より、ジプシー・スウィングを愛する人間にして見れば、生みの親でありその奇跡的な才能に溢れていたジャンゴ・ラインハルトは神に近しい存在である。聖月程の才がありまたプライドの高い男ならば、その存在は絶対的に超えられない壁に感じるのだろう。何処へ行っても眞鍋聖月ではなく、ジャンゴが付いて回る。悔しくないはずがない。もしかすれば、それで長年拗ねているのではないだろうか。そう思い立ち、陽は深く息を吐いた。
 聖月に音楽の才能さえなければ────。何度目かそれを思い、静かに瞼を閉じる。浅い眠りに向かう中で、先程まで胸を満たしていた新しい旋律が軽やかに蘇っていた。